アフリカの空手ボーイズ奮闘記 – Karate is for self-defense

3.  練習開始

手始めに、どれ程の力と柔軟性があるのか試すことにした。練習場所は、いつもの場所である。

空手ボーイAは期待と緊張が混じったような面持ちだった。誰にでも、いくつになっても「初めて」の経験はある。

私は彼に連続で何回まで拳立て伏せができるか、土の上でやらせてみた。

「ほな、拳立てやってみい」

「はい、センセイ」

30回もできれば上出来だと思っていたが、彼は平然と50回もやってのけた。

「砂利よ、拳はべっちょないんけ?」

私が聞くと、

「家ではコンクリートの上でやっていました」

と空手ボーイA。

ザンビアの家は、基本的に床はコンクリートでできていた。畳や木の床は、まず見たことがない。

それにしても、柔らかい畳の上でさえ、拳立て伏せをすると拳は痛い。いきなりレベルの高いところから始めていたとは、思ってもみなかった。

次に開脚をさせてみた。

格闘技において柔軟性は最も重要な要素。仮に同じ体格、体重、筋力を持った人間がいたとして、柔軟性がある方の破壊力は、ない方に比べると遥かに強い。

ストレッチは基本中の基本だが、それ故にサボってしまう人は多い。従って、彼もせいぜい開脚できて150度くらいが限界だろうと思っていた。

「ほな、次は開脚やってみい」

「こうですか、センセイ?」

眼の前から、空手ボーイAが消えた。その場で開脚し、地面へと急降下していたらしい。

……180度だった。

彼の両足は左右一直線に開かれていた。相当の痛みを乗り越えなければ、たどり着けない柔軟性。本当によく努力したなと感心した。

アインシュタイン曰く

「天才とは、努力する凡才のことである」

Genius is the man of average ability who makes an effort.

とある。またしても平然と想像以上の実力見せつけてきた。私は嬉しかった。まるでダイヤモンドの原石を見つけたような気持ちだった。

その日から彼も練習に加わった。練習時間は1日30分から1時間だった。練習日は、特に決まっていなかった。お互いに時間のあるときに練習した。

彼らの本業は学業。私の本職はあくまで理科教師だった。

それに私は空手を教えられる資格は持っていない。ただ知っていることを共有していたに過ぎない。

練習では、必ずストレッチはするようにしていた。下の写真がその例。

練習着はおろか、防具も何もなかった。練習はいつも学校の制服か私服だった。強くなると決めた漢達には、それで十分だった。誰一人として、文句一つ言わなかった。

練習は和気あいあいとしたものではなかった。弱音を吐けば、私の蹴りが飛んできた。

防具は無かったが、素手で戦わせた。相手への尊敬と感謝を拳に込めて、真心で打たせた。全身の痛みは、弱さだと教えた。

そしてどれほど強くなろうとも、痛みが消えることはないと。痛みを知っているからこそ、強くなれるのだと。

しかし、そんな練習でも空手ボーイズは喜んで参加してくれた。

そして空手ボーイズに口酸っぱく言っていたことがある。それは

空手は身を守るためのもの

であるということ。自分から相手を傷つけるために使ってはならないと、毎日のように言っていた。

何年も経った今でも、彼らはそのことを忘れてはいないと、私は信じている。

やがて乾期になると、草原の背丈は徐々に縮まり、古株の生徒たちは学校の卒業と同時に道場も卒業していった。そして空手ボーイAとその友達(空手ボーイB)との3人での練習が始まったのである。

第三弾へと続く…。

 

この記事の英語版はこちら「Karate Boys in Africa – Karate is for self-defense

 

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