教師が征く 数字と文字の違い
英語圏ザンビア – 数字こそ世界共通言語
衝撃だった。
一人で勝手に日の丸を背負い、自ら侍ジャパンと自負する熱血教師は、ザンビアの学校に赴任後すぐに20時間ほど任されていた。そのため、あまり他の先生の授業を見たことがなかった。
彼は以前から見学したいと考えていたので、その日は仲良くなった同僚の授業を見にいってみた。授業内容は「体積」についてだった。
”体積とはその物体が占める空間の量である”
同僚が黒板に書いた。
そして生徒に問い始めたのである。
「体積とは一体何でしょう?」
さっき黒板に書いたばかりのことを、聞きまくるのである。前の方から後ろの方の生徒まで何度も同じ質問を繰り返す。
”はよ次進まんかい”
彼がそう思ったのも束の間、答えられない生徒が続出したのだ。教室の後ろの方に陣取る生徒ほど答えられない。
彼は、その村で自分の髪の毛だけがストレートだと気付いた振りに「はっ」とした。
彼らは簡単な英単語すら読めない!
次に文章問題を出してみた。問題の内容は、A君が持っているバナナ20本をB君、C君、D君と均等に分けると一人当たり何本のバナナを与えられるか、的なレベルである。
すると生徒は黙り込んでしまうのである。
何人かの生徒は、数式は読めても文章が読めない。数字と文字の差である。
彼の学校はレベルが高い方だと聞いていたため、授業で使う程度の英語はみんな理解してるもんだと思っていた。大きな誤算だった。
前まで全く手を挙げなかった生徒が、最近は黒板の前で問題を解こうとするようになっていた。ただ、いつも間違っていた。とんでもない珍解答が勃発するため、時には爆笑が起きた。
ほぼ答えのようなヒントを与えても「ん~」と考え込んでいるときは、他の生徒が助けにきて代わりに問題を解いてあげた。
英語は分からないけど、数字の並びを見て、「これなら自分には解けるかも」的な挑戦をしてくれていたのだった。
なるほど数学の授業の時だけ手を挙げるわけである。他の科目では、その意味も分からず、ただ黒板を写しているだけなのだろう。
”それでも良い”
彼は思った。知識が力となることは承知している。ただ、それ以上に大切なことがある。
アインシュタイン曰く
教育とは、学校で習った全てのことを忘れた後に、それでもなお自分の中に残るものをいう。
知識は後からいくらでも習得できる。重要なのは社会で生き抜く力。挑戦し続ける力である。
サムライ熱血教師は、ザンビアの子どもたちに、知識の教授という活動を通して、その力を養って欲しいと考えていた。
いつかアフリカの時代が来る。
その黎明に、現地の青年が先頭に立つ日を夢見て。
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