教師が征く 初の授業中断
熱血教師の初の授業中断
このシリーズは、アフリカ・ザンビアの農村部にある学校で奮闘したある漢(自称、サムライ熱血教師)の話である。
歴戦のサムライなれど、初めての経験は来る。
「お前ら、もう授業受けんでもええぞ?」
先日、彼は初めて授業を中断し、ある二人組の生徒に言い放った。
他の生徒が真面目に設問に答える度、大袈裟に茶化すからである。察するに、悔しくて、羨ましいのだろう。
”自分も格好良く正解したい。でも、できない”
多感な年頃の素直な気持ちと、それを素直に表せない不器用さ。
分からないわけがない。あらゆる青年は少年を経験する。孤高の戦士にも、分かりすぎるほどに分かるのだ。
「どうか彼らを許してあげて下さい」
真面目な生徒が言った。麗しい友情に彼は感心した。同時にそれは、甘えにも成り得る。
生徒に考えさせる良き機会だと、彼は思った。自分の言動に責任を持つことは、漢として必須科目だからである。
「勉強の邪魔をされて嬉しい人?」
生徒が静かに首を降る。彼は続けて問う。
「そんなお前らの邪魔をすることを選んだ彼らに、何か言いたいことはあるか?」
みんな黙ってしまった。
「強制されない限り、あらゆる言動には責任が伴う。責任が取れないことは、言動に移すな」
責任とは何なのか、中学生に訴えるには少し早いかもしれない。しかし、種を植えずして果は実らない。各々が感じたこと、考えたことを、養分として蓄えておけば良い。
彼の学校では、点数が悪かったり、少しうるさいと罰を与えられる。厳しい先生は木の棒で生徒を叩きつけるし、罰としてトイレ掃除などを与えるのはごく普通である。物理的な罰を与える方で、生徒との対話はなかった。
何故、言動に責任を持たなければならないのか。それは、因果応報である。
現在の果は、過去の因。つまり、
未来の果は、現在の因で決まる。
運とか環境といったものは、現場で最善を尽くし切った者のみが初めて頼れるものである。むしろ不運や逆境を楽しめるほどの大境涯へと育って欲しい。
未来を見据えて今の自分をコントロールするには、まず自分の行動一つ一つに意識を向ける訓練がいる。授業を通してそれを身に付けてくれたら良い。
彼はもまだまだ試行錯誤の段階である。これで良いのかと自問自答の日々が続いた。
その後、生徒はしばらくの間は大人しくなった。
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