俺がカシュカシュの扉を開けると、長いL字のカウンター席の一番奥に長野が座っていた。俺は長いカウンター席の後ろを通り、長野の左隣に立ち、コートを脱ぎながら言った。
「お疲れ。お前のほうが早かったんだな」
「そうみたいだな」
「もう注文したのか?」
「いや、まだだ。お前を待ってやってたんだよ。って言っても2分程だがな」
「そうか、悪いな」
俺はカウンターの後ろにあるハンガーにコートを掛けて、長野の左隣の席に腰を下ろした。
「いらっしゃい」
シワ一つない白いワイシャツに折り目がしっかり付いた黒いスラックス、黒のネクタイをタイトに締めた難波さんが、磨いていたグラスを置き、俺達が座っている前に来て、カウンターの中から優しい笑顔で言った。
「どうも」
「一杯目は、何を召されますか」
難波さんは優しい笑顔のまま、緩やかな口調で言った。
俺は何を飲もうか考えた。「なんかこう、ハワイを思い浮かべるような、爽快な気分になれる炭酸のカクテル」なんて事を言おうとしたが、面倒だったのでやめた。
「ジャックダニエル、ストレートで」
「承知しました。そちらのお客様は、何を召されますか」
続いて難波さんは、優しい笑顔のまま長野にも尋ねた。
「僕は生ビールでお願いします」
「承知しました」
難波さんは丁寧に頭を下げ、カウンターの中央へと戻って行った。
「ところでお前、今日の成果はどうだった?上司とやらに褒められたんじゃないのか」
「そうだな、お前のおかげだよ」
「 今日はとことん付き合ってくれるんだろうな」
「そのつもりだ。そのために明日の午前中は半休を取ったんだ」
「ほう、気が利くな。まあ、ゆっくり飲もうや」
「だな。ところでお前、あの後何かあったのか?」
「ん?ああ。色々とな。もしかしたらお前の力を借りる事になるかもしれない。その時は嫌な顔せず力を貸してくれ」
「ああ、何でもどうぞ」
「前から失礼します」
難波さんがジャックダニエルと生ビールを持って来てくれた。俺達はグラスを持ち、軽く合わせてから口へと運んだ。
「すみません」
長野が言った。
「はい、何でしょう」
「ナポリタン一つ、お願いします」
「承知しました」
難波さんは笑顔のまま注文を聞き、笑顔のままカウンター奥の厨房へ オーダーを通しに行った。
気が付くと俺は、自分の部屋のベッドで横になっていた。時計を見ると短針は11と12の間を指し長針は6を指していた。秒針は3を指していたが、毎秒毎に右回りに動いていた。正常に機能している証拠である。
しかし昨日、長野がナポリタンを注文した後の事が全く思い出せない。いったいどうやって帰ってきたのだろうか。
一先ず俺は、こたつの前に移動するため体を起こした。が、その時、左のこめかみと胃に激痛が走った。これは数ヶ月に一度起こる、最上級の二日酔いだ。
なんとかこたつの前に移動し、マルボロに火を付けた。マルボロの煙を一口肺に入れた瞬間、俺の体内は限界を迎えたようだ。すぐにマルボロの火を消し、裸足のままトイレへと向かった。俺の部屋は瓶やゴミが散乱しているため、一歩踏み出す度に足の裏に激痛が走った。しかし、こめかみや胃の痛みに比べると大した問題ではない。
とにかく俺は、無我夢中でトイレへ急いだ。トイレに着 いた俺は、膝を立て便器に顔を突っ込むような姿勢で嘔吐した。
胃に残っていた物の殆どを体外に出し終えると、俺の体はかなり爽やかになった。今日1日で随分と仲良くなったトイレに別れを告げ、こたつの前に戻り、改めてマルボロに火を付けた。
時計を見ると1時前だった。俺は1時間以上もトイレにいたのだ。誰も耳を傾けないスーパーの前で、独自の演説を1時間以上繰り返す立候補者と同じぐらい無駄な時間を過ごしたのだと実感した。
マルボロの煙を味わっていると、携帯が鳴った。長野からだった。
「おう、おはよう」
「おはようじゃないよ、まったく」
「ああ、昨日はすまなかったな。全く記憶がないんだ」
「せめてもの救いだな」
「ん?どういう意味だ?」
「嫌な出来事の中でも、救いとなる事があるって意味だ」
「言葉の意味を聞いたん じゃないよ。俺、昨日何かしたか?」
「ああ、思い出さないほうがいい。思い出したらきっと死にたくなるはずだ」
長野は笑いながら言った。
「そうなのか。まあ、迷惑をかけたならすまない」
「ああ、かなり迷惑だったよ。お前とはもう一生飲まないからな」
「そう言うなよ」
「ところで、昨日言ってた事は本当か?」
「俺、何て言ってた?」
「『俺は実は東大卒なんだ』とか『先月実家の庭から石油が出た』とか『冬より夏のほうが好きだ』とか」
「そんな事言ったのか。その中だと3つ目だけが本当だ」
「なら、前田の弟が疑われているってのは、本当か?」
俺は火の付いたままのマルボロを灰皿に置いた。
「・・・そんな事まで言ったのか」
「本当のようだな」
「その 話、どこで言った?」
「カシュカシュだよ。他に客はいなかったし、随分小声で言ってたから難波さにも聞こえていないと思うぜ」
「そうか」
「でな、ついさっき、ボヤの日に目撃された怪しいってやつの写真を入手できんだ」
「え、本当か?」
「ああ、この後すぐお前の携帯に送ってやるよ」
「ありがたい。よろしく頼む」
「それとな、お前とはもう一生飲まないからな」
「そう言うなよ。悪かったよ、本当に」
「冗談だ。とにかく、写真だけすぐに送るよ」
俺は礼を言って携帯を閉じた。閉じたと同時にメール音が鳴った。開いてみると博子からだった。
〔かなり酔ってたけど、ちゃんと帰れたの?〕
との文面だった。
他にもフラワーのみずから1件届いていた。
〔今 日はありがとう。あの約束、絶対だよ。気をつけて帰ってね〕
との内容だった。あとは今日の朝9時20分、高畑みきから着信が入っていた。
俺は昨日、いったいどのような夜を過ごしたのだろう。フラワーに行った事は間違いないようだ。長野も一緒に行ったのか?それとも1人で行ったのだろうか。
昨夜の事を思い出そうと試みたが、すぐに無駄な努力であると悟った。その時、再びメール音が鳴った。長野からだった。文面は無く、写真が一枚添付されていた。
暗い上にぼやけているため、顔ははっきり写っていない。しかし服装や体型は弟くんと瓜二つだ。
俺は意味もなく深いため息をついた。灰皿に目をやると、さっき置いたマルボロは自然と消えていた。
シャワーを浴びた俺は、歯を磨き、髪を乾かし、部屋に戻ってジャージを着た。
こたつの前に座り、マルボロに火を付け、ニッカを一口体に流し、5口程味わったマルボロを消し、ニッカをもう一口体に流し、立ち上がってコートを羽織り、靴を履いて家を出た。
ツグミに入ると、珍しく団体客がいた。老人会の集まり、と言ったような感じだ。
俺は読売新聞を手に取り、窓際のテーブル席へ腰を下ろした。
新聞を広げるとほぼ同時に、あっちゃんがおしぼりを持って来てくれた。
「いらっしゃいませー」
「ああ、おはよう」
「あの、昨日はすみませんでした」
あっちゃんはいきなり頭を下げ、謝ってきた。いったい何の話だ?と思ったが、瞬時に理解できた。きっ と昨夜、あっちゃんにも連絡をしたのだろう。しかしあっちゃんは既に眠っていて、電話に出る事ができなかった、そんなところだろう。
「いやいや、とんでもない。夜中にごめんな」
あっちゃんは「ん?」と言うような表情をしている。
「夜中?何の話ですか?」
俺はわけがわからなくなった。
「ああ、いや、ごめん。昨日はすみませんって、何の話?」
「昨日、シングルモルトと間違えて、ボトラーズを出してしまったんです」
あっちゃんは申し訳なさそうに言う。しかし、俺は全く気付かなかった。酒飲みが酒の味に気付かないなんて、とんだ赤っ恥だ。
あっちゃんは申し訳なさそうな顔で言葉を続けた。
「帰られた後に間違いに気付いて、その事を店長に話したら『間違いには気付 いていただろうけど、気をつかって何も言わずボトラーズを飲んでくれたんじゃないか。次来た時に謝りなさい』って。あの、ほんとすみませんでした」
あっちゃんはまた頭を下げた。謝られれば謝られる程、俺は恥ずかしくなった。
「いや、いいよ。そんな事もあるよ。ボトラーズもなかなか、美味しかったよ」
俺は小さなプライドと見栄が邪魔をして、素直に「気付かなかった」と言えなかった。
「すみません。ありがとうございます。今日は間違わずに持ってきます」
「ああ、ありがとう」
「あ、注文はいつものでよろしいですか?」
「うん、いつものでよろしく」
あっちゃんはおでこに右手を当てる事なく、厨房へオーダーを通しに行った。
間違えたのはもちろんあっちゃんである が、俺のせいでさらに申し訳ない気持ちにさせてしまった。時間を戻す事ができるなら、俺は素直に「気付かなかったよ」と言ってやりたい。さらに俺は、もう一つ気付いた事がある。俺はあっちゃんの連絡先を知らない。そのため、昨夜はおろか、いかなる時も連絡する事は不可能なのだ。
考える程に俺は赤面し、顔を隠すように新聞を広げた。
ツグミで朝食のような昼食を味わった後、店を出てミッキーへ行った。
「どうも、こんにちは」
「あら、思ってたより早い時間に来たね」
おばちゃんは言った。おばちゃんがどう思っていたのかはわからないが、俺が昨日、夕方に来ると伝えたため、夕方に来るものだと思っていたのだろう、と推測できた。
「すみません、早い時間に。もう出来てますか?」
「出来てる出来てる。昨日もあれからずっと暇だったでしょ。だからね、昨日の内に仕上げた訳よ」
この店が昨日暇だったのかどうかは、どうあっても俺にはわからない。
「そうでしたか、ありがとうございます」
「いいのいいの。ほしてね、今日も暇な訳。だから今日はもう閉めるかなー、なんて思ってたけど、あんたが取 りに来るまでは閉める訳にいかんなって思ってた訳よ
「はあ、気をつかわせてすみません」
「何で謝る。勝手に閉めようと思ったこっちが悪いんださ。だからあんたが謝る事なんてのは一つもないのさ」
仰る通りではあるが、謝らざるを得ない空気を作ったのはおばちゃんだろう、と俺は思った。が、わざわざそれを口には出さなかった。
おばちゃんは「ちょっと待ってな」と言って店の奥へ入っていった。1分もせずに大きなダンボールを抱えて戻って来た。俺が頼んだ衣類は、いつも大きなダンボールに入れて渡してくれる。
「ほいさ、これね」
おばちゃんは言った。
「あ、どうも、ありがとうございます」
「しかしあんた、たまにジャージの日もあるのな。そのジャージも思ってたより いいと思うけどね、あたしは」
おばちゃんがどう思っていたのかは俺にはわからない上、推測もできなかった。
「ありがとうございます」
とりあえず俺は、曖昧な礼を言った。
「あ、ほいでな、これ、最近乾燥してるでしょ。したから、これ、あんたにあげよう思うて。ほら、あんたタバコも吸うでしょ。ほしたらやっぱり、喉、負担かかる思うんよ。若いゆうても油断大敵だで、これ、たまに舐めるといいさ」
おばちゃんは黒飴をくれた。俺は急に、ロールプレイングゲームの主人公のような気分になった。「俺はおばちゃんから黒飴を貰った」的な字幕と、ドラクエの曲が脳内で再生された。
「あ、どうも。ありがとうございます」
「いいさいいさ。おばちゃんと飴ちゃんはセットだで」
おばちゃんは、どうだ、と言わんばかりの表情で言った。おそらく、渾身の駄洒落だったのだろう。
とにかく俺は、礼を言ってミッキーを後にした。
家に戻った俺は、ダンボールと黒飴を置き、ジャージを脱ぎ、ブルーのワイシャツに袖を通し、銀のネクタイを結び、黒のチェスター・バリーを着用し、ニッカを一口体に流して部屋を出た。
時計に目をやると3時だった。やらなければいけない事はたくさんあるが、何から手を付けていいのかわからなかった。とにかく俺は、ミナミへ向かった。
宛ても無くミナミを歩いていると、蛸ぎゃんぐの前に来ていた。無意識と言うのは怖いものだ。自然と居心地の良い場所を目指していたのだろう。
蛸ぎゃんぐの扉を開けると、10代と思えるチンピラが7人、店を占領していた。その内の4人は昨日ここであったバカどもだ。ふと厨房を見ると、竹田が鼻血を出して壁にもたれるように地面に座り 、両足を伸ばしたままぐったりしている。
「おい、竹田、大丈夫か!?」
俺は大きな声で言った。その言葉に反応したのは竹田ではなく、昨日俺の胸倉を掴んできたバカだった。
「あ、こいつです。昨日話したやつ」
俺の胸倉を掴んで来たバカが、このグループの頭と思われるバカに言った。
「お前か、昨日はこいつらを可愛がってくれたそうだな」
頭と思われるバカが俺に言った。
「初対面の人への口の利き方を知らないのか、偏差値20以下グループの隊長」
「何だ、訳のわかんねえ事言いやがって」
「とにかく、日本語が通じるとの前提で聴いてやる。竹田をやったのはお前らか?」
「タケダ?ああ、このデブか。さあ、どうだろうな」
「おい、竹田、大丈夫か?意識はあるか?」
俺は再び、大きな声で厨房のほうに向かって言葉を発した。
「・・・ああ、なんとかな。情けないよな」
竹田は小さな声で、力無く言った。とにかく意識はあるようだ。俺は一先ず安心した。
「おい、もう一度聴く。竹田をやったのはお前らか?」
俺はバカの頭と思えるやつに聴いた。しかし俺の質問に答える事なく、挙句の果てに俺に指示を出してきた。
「お前、ちょっと来いや」
そう言うとバカの頭は俺の横を通り店を出た。とにかく俺は、店内にいるバカ共の間を抜け、竹田に駆け寄った。
「おい、竹田、お前をやったのはこいつらか?」
「・・・ああ、そうだ。情けない」
「何でだ?何があったんだ?」
「・・・ああ、こいつらがな、お前を呼べって言ってきてな、それを断ったらこの様よ。ほんと、情けない」
竹田との会話中、バカ共が俺の腕や首を掴んできた。そのまま俺は、店の外へ連れ出された。
「連れて来い」
頭が言った。俺はバカ6人に掴まれたまま、歩かされ、言われるがまま連れて行かれた。